マインド

無気力さと乗り越えない現状とメンタリティ

/ suittoの中の人

無気力さについて

多くの人が無気力だと感じる瞬間があるように、私も無気力であることが多い。特に強く意識するのは休みの日にやることがないと感じるあの瞬間だ。

ここ1年、いや、実はもっと長いこと休みの日に何もやることがない、見出せない日々が多かったような気がする。

これまでは平日にやることをすべて終えているのだと思い込んでいたが、最近になってどうも違うらしいことに気がついた。

普通、人は休みの日に余暇として自分の趣味に没頭したり、お出かけをしたり、自己研鑽を積んでいるのだ。そんな常識を私は忘れてしまっていた。

私には休日に時間を当てるほど没頭、ないしは熱中できるものがないのだ。そう気がついてしまった。

私は他人から多趣味だという評価を得ることが多い。野鳥撮影や社会人バンド、凝った料理も作ったりする。ただ、そのどれもが常に私の中で多くのマインドシェアを割くものかでいくとそうではないのだ。活動は活動の時間として、半日程度を占めれば良いだろう。しかもこれらの趣味は、多くの趣味に共通することだが、事前準備が必要となるため日々の研鑽が必要となるのにも関わらず、私はそんなことはしない。ただただ、先にあげた3つの活動を目の前にしたときだけやるのだ。

こんなスタンスでは上達しない。だから面白くない。何か上達や達成感もないからドーパミンも出ず、熱中しないのだ。

だが、考えて欲しい。「熱中し、ドーパミンを出して楽しんだ方が良いのか」と

「熱中」の定義

まず、「熱中」の定義から考えてみよう

他のことを忘れて,一つのことに心を注ぐこと。

辞書的な意味はこのように記載がある。違和感はない。大事な部分は「一つの」と「心を注ぐ」だろう。

まずは「一つの」という点だ。辞書的にいえば複数のことではないらしい。もちろんこれは常にひとつのことではなく、散漫にならず、向き合う時間や空間においては「一つの」ことに向き合うという限定を示しているのだろう。

私の例で行くと、料理をしている時に食材を刻まずビートを刻んだり、鶏肉を見て撮影を始めたりすることは少なくとも「一つの」ことに限定して向き合っているとはいえないのだろう。

続いては、「心を注ぐ」だ。難解だ。心は注げるものなのか?であれば液体か流動性の高いものだと仮定できるのか?その場合、心は形を持ったものであり、精神の神秘的な何某かは手に取るものとして他社も知覚できるようなるのか?

そういうことではないのだろう。確かに難解だが、ここは一つずつ解釈していこう。わからなければより分解して定義付けをすれば良いのだ。

まず、ここでいう「心」は感情などを示すものではなく、自分自身の魂や生きがいなどのある種抽象的な中でもより曖昧だが代替も他者からの評価ができないアイデンティティに近いものではないだろうか。自分を形成するもの自体を「心」として定義するとそれを何か「一つの」ものやことに向けるというのは無関心であるという評価にはなり得ないだろう。

次に「注ぐ」だが、ありがたいことにこれは「注意」や「傾注」などの熟語で使われる意味だろう。もう少し深掘りをすると「注ぐ」というものは意識や思考など人間の表層化しない行動にも言葉として使われるということだ。詳しい語源については詳しくないので避けるが、元々は水や液体が流れ出るという意味があることから、液体が重力に沿って一つの点に向かう様を比喩として意識や視線、思考などにも使えると踏んだ粋な日本人の表現なのだろう。

それでも熱中しない私たちへ

ということで、「熱中」とは何か一つのことに魂としての心を注ぐことと定義されている。ここからが本題で、結局私たちはその熱中をしないという話だ。

熱中できないのかという話をせず、「しない」と言ったのは「熱中」が「魂である心を注ぐ」ことであるからで、仮に「できない」というのであればそれは自由意志を持った人である理由を失っていると思えて怖くなるからだ。そんな怖い思いはしたくない。

「熱中しない」のは大きく、複数の事柄に平等に意識を向けているポジティブな状態か意図的に意識を注がず「こなす」状態と分類できる。(MECEではないことはご愛嬌)

この「こなす」状態が常に継続していること、もしくは「こなす」ことが目的化してしまった状態が無気力で熱中しないことを選択したことになる。

私たちは無意識に「何かに熱中している状態」を善とし、そうでない自分を「無気力」という箱に押し込めてしまいがちだ。しかし、一つのことに心を注ぎきる「熱中」という状態は、裏を返せば、その対象が消失したり、あるいは期待通りの報酬(ドーパミン)が得られなくなった瞬間に、自己そのものが機能不全に陥る「シングル・ポイント・オブ・フェイラー(単一障害点)」を抱えることを意味するのではないか?

趣味を、事前準備も研鑽もせず、ただ目の前にある時だけ淡々と「こなす」。このスタンスは、決して情熱の欠如ではない。むしろ、自分という資本を複数の領域に軽やかに分散させ、どの地点からも「いつでも離脱でき、いつでも再開できる」状態に保つ、極めて高度なリスク管理だと思う

「こなす」ことで担保される、生き方の多重性

料理をこなす、音を出す、シャッターを切る。 それらを上達や自己実現という崇高な目的から切り離し、ただ「実行(Execute)」のレイヤーに留めておくこと。そうすることで、私のOSは常に複数のインターフェースを開いたまま、エッセンスだけを享受することができる。

特定の領域で習熟を目指す「熱中」は、他者との比較や成果への執着によるより高みへの研鑽であり評価されるべき事柄だ。しかし、あえてただ「こなす」だけならば、そこには純粋な行為の手触りしか残らない。上達しないことを面白くないと感じるのではなく、「上達という義務から解放されている自由」を享受する。この視点の転換こそが、現代における「粋」の正体ではないか。

分散された自己を評価したい

何かに熱中してドーパミンを出すことだけが、人生の質を決めるわけではない。むしろ、複数の趣味や活動を浅く、しかし確実な手応えと共に「こなし」続けることで、私たちは社会や自分自身の期待という摩擦から、軽やかに逃れることができるようになる。

「乗り越えない」ことは、停滞ではない。 それは、特定の価値観に魂を買い叩かれないための知的なディフェンスだと思う。 一つのことに殉じるのではなく、無数の「こなす」を積み重ねて、自分だけの多層的なライフスタイルを構築すること。

熱中という名の重力に縛られず、人生のアイドリングに興じながら、複数の人生を並行して滑走していく。そんな「分散された自己」の心地よさを、今はただ、静かに味わっていればいいのだと思う。

この記事で、誰かの心の摩擦がスイっと消えますように。

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